日语演讲稿篇1
又要当主持人了,这回是日语演讲比赛的主持人,同时我也是比赛的参赛选手。这是我写的演讲稿(其实是我写的中文稿,让一位好人帮我翻译成日语的),各位懂日语的读者们不妨看一看……
みなさんこんにちは:
僕のスピーチのテーマは「あきらめずにすすむです
ちいさい頃にこんな話を聞いたことがあります。三匹のカエルがひとつの牛***の入った桶に落ちて、それぞれ違う反応をしました。一匹目は「これは運命だと思い、じっと死を待っていました.二匹目は死にたくありませんでしたが「こんな深いおけ、俺の力ではきっととびだせない、もうおしまいなんだと思い、試すことも諦めました。三匹目のカエルは情況を確かめてこう考えました。「情況は最悪だな、だがわたしにはまだ力がある、なんとかして足場を探して、ここを飛び出せねばならない.そうしておよいでいるうちに牛***はカエルの足にかき回され、徐徐に固まって生クリームになりました。そこで足場ができ、三匹目のカエルはここからとびだすことに成功しました。
カエルの足で牛***を固めることができるかどうかは後にして、当時のぼくはこの話を聴いて「どんな時でも諦めてはだめだと強く感じました。
そして中学一年のことになります。あれは僕にとってひとつの試練のようでした。
中学に上がり運動会で一キロメートル競争の项目が出てきました、学校のグランドで5周です。寒い天気の中、ぼくたちはスタートラインに並び、よついのしぜをし、「ピーと始まりの笛と同時に、みんな一斉に飛び出していきました。僕も負けずに前まで飛びついていきました。ほかの人に追いつかれないように夢中で走り、体力のことを考えていませんでした。
こうして最初の二周を素早く走り終えましたが、三周目のときに体が急に重くなりました。体力の消耗で、まるで体が何かに引っ張られているようで頭も重くなり、気も苦しくなってきました.後半分残っている、こんな情況で残り半分走り切れるのか?走り続いたらきっともっと苦しくなる。「ギブアップするか、これ以上無理をするまでもない一瞬そんな考えが頭に浮かんできました。
「どんなときでもあきらめてはだめだとつぜんそんな言葉が頭の中によみがえた。前方を見ると、みんなの走りに何も異変がみえない。どうして彼らはそんなによゆうで走っていられるんだろう。いや、走りに変わりはないが、よゆうなはずがない、きっとかれらもぼくとおなじように迷っているかもしれない。でも彼らはまだ続いている、ぼくもまけられてはいけない!そう思ってぼくは再び自信を取り戻し、引き続き足を早め走り出しました。
「ここで諦めてはだめだ、それでは前の努力が無駄になってしまうそんな思いで四周目、五周目と走り続けていきました。もうすぐゴールだ、僕は残り力をふりしぼって、全力疾走!すべての思いをこの一瞬にたくしました。
ついにゴールした!勝利の微笑みと同時、ゴールを突き破ぶり二位に立った。1位にはなれなかったけど、一度あきらめようとした自分を勝ったんだ、しかも二位まで上がった。そのときの喜びは言葉に出せないくらいでした。そして体の方も思ったほど苦しくありませんでした
「どんなときでも諦めてはだめだこの事でこの言葉の真意がわかりました競争だけではなく、勉強、仕事そして自分の「夢に対しても同じです。何事もいつもうまくいくはずはありません、必ずつらいときや苦しい時があります。だが決して諦めてはいけません。それが自分が正しいと思うこと、自分の望むことなら,諦めない限り、希望はどこまでもあるものです!
日语演讲稿篇2
光阴似箭,岁月如逝,面对眼前这个正在孕育着“新生命”的泱泱大国,似乎脑里会立刻闪现出一片繁荣昌盛的景象,但未来虽是美好的,可从前的奇耻大辱和无限拼搏难道我们可以随着时间的流去而渐渐淡忘吗?“不!”作为一个中国人,绝对不能忘记那可悲的年代。中华民族,一个拥有五千多年历史文化的璀璨民族。从虎门销烟到八年抗战,我们这个生生不息的民族是怎样一步一个脚印走了过来。从郑成功收复台湾到香港回归,我们中国又是经历了多少磨难和艰辛才胜利光荣地收获获了丰硕累累的果实。
同学们,中国的领土是绝对不容侵略者的踩塌和分割的。要想洗清耻辱就得振兴中华。唯一振兴中华的办法是增强国力,增长威严,增加人才。中国当年的奇耻大辱与你说上三天三夜也说不完,如:香港自古以来是中国领土。1840年,英国发动鸦片战争,强迫清***府于1842年签订《南京条约》,永久割让香港岛。1898年英国有趁列强在中国划分势力范围之机,逼迫清***府签订《拓展香港界址专条》,强行租借九龙半岛大片土地以及附近二百多个岛屿。又如:1894年日本侵略朝鲜并向中国挑衅,引起“中日甲午战争”。由于清***府腐败无能而遭到失败,于1895年被迫签订了丧权辱国的不平等条约《马关条约》,台湾被割让给日本,被日本侵略者统治了整整50年!在统治期间,他们采取***事占领、经济掠夺奴化教育等种种手段奴役台湾人民学日语,无法学习国语。这以上两个是人们比较熟悉的,还有人们不熟悉的。例如:北京的圆明园里收藏着文物古老,景物十分丰富多彩、美不胜收,是我国园林艺术的瑰宝,是建筑艺术的精华,被称为“万园之园”,所以英法联***不但很想吃掉这块肥肉,后来还毁灭了这一世界之最。这么多的耻辱是中国人民的千年噩梦。
同学们,一个坚强不息的民族终于永远矗立在了东方的大地上,一头睡醒的雄师终于向世界发出了怒吼。让我们永远记住,国弱必被欺,国破则家亡,落后就得挨打。同学们,让我们勿忘国耻,振兴中华吧!
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日语演讲稿篇3
人的一生有无数种可能,俗话说的“计划没有变化快”就是这个道理。但在接受各种变化的同时,顺应变化这个过程,并不断调整自己,也能让自身的适应能力慢慢增强,我就经历了这样的一个过程。
那是2008年6月考取“中日人才培养奖学金”后,我于同年6月到2010年7月被公派到日本留学。
抵达日本后至2008年9月,我一直在东京进行日语培训。那段时间,日语培训学习的强度比较大,每天都有听写,定期都有测验。在学习过程中,我们是小班授课,一个班12个人。同学都是同一个奖学金项目的中国人,在日本读书期间将会去两个不同的学校。日语培训结束的时候,每个学校要选一个代表做毕业演讲。由于我的口语比较流利,因此被选为学校代表进行演讲。刚开始,我觉得压力很大,因为我从来都不是一个很自信的人,在众人面前演讲,而且还是在国外,这种情形是从来没有想过的。日语老师看出了我的焦虑,就一边很耐心地帮我修改演讲稿,纠正发音;一边传授我一些演讲中应该注意的技巧:应该多少准备一些演讲稿,不一定是成文的东西,但是在有事情发生的时候要知道该说什么,要能清楚地表达自己的观点。同时鼓励我:随着时代的进步和经济的发展,这样展现自己的机会将越来越多,这不单纯是一种自我展现,更是对一个人综合素质的提高。日语老师的帮助和鼓励,让我觉得应该好好把握这次锻炼自己的机会。压力减轻许多,最终我顺利地完成了演讲。这次经历让我觉得自己所收获的不只是日语培训合格证和成功演讲后的掌声,更重要的是自己调节心理压力和接受新事物的过程。
我们的奖学金项目是用英语授课的。虽然在国内我的英语水平符合要求,可自己毕竟不是英语专业,加之在平时的实际工作中也很少接触英语,要接受全英文的授课并且用英语写作论文,差距自然显现,由此我暗下决心,一定要克服困难,完成学业。
第一个学期都是必修课,课程负担比较重,为解决上英文课不适应的情况,上课时我都会把老师讲的内容录下音来,回到宿舍后认真复习,并反复听录音。同时,在学习期间,除了基础的宏观经济学、微观经济学等理论课外,课程设置更侧重于数量分析。上大学时,我只是很表浅地学过一点计量经济学的理论,根本没有接触过理论的应用,再加上自己对电脑操作不很熟悉,感觉特别吃力。好在,在平时的工作中,我接触了很多经济数据,这样的经历对学习有了一定的帮助,加上我阅读了很多相关材料,大量做练习提高自己电脑操作的熟练程度,渐渐地熟悉了对各种类型的数据分析,最终顺利完成了最后的学习。
经过两年的学习,在通过毕业论文和答辩,并取得硕士学位的那一刻,我深深地感悟到了一点:人生,应顺应变化并调整自己。